般若心境
感染自在菩薩
行政対策波羅三蜜多時
短期集中皆空
度一切苦厄
指揮即是空
空即是指揮
感染自在菩薩
行政対策波羅三蜜多時
短期集中皆空
度一切苦厄
指揮即是空
空即是指揮
コロナ禍の勢いは絶へずして
しかも元のウイルスにあらず。
流れに任せしGo to政策の
かつ勧め
かつ躊躇ひて
経済効果のある試しなし。
世の中にある人も
またかくの如し。
たましきの都のうちに
外食に並び、紅葉狩に争へる。
はやり病は世々を経て尽きせぬものなれど
オリンピックは開催かと尋ぬれば、
民意にては賛意まれなり。
上意の朝にあり、夕べになくなるならひ、
ただ水の泡ぞ似たりける。
三密五小の知事の声
対策無効の響きあり。
担当相の顔の色
感染者必増の理を表す。
トラベルイートも久しからず
ただ春第一波の夢の如し。
三連休もついには滅びぬ
ひとへに風の前の枯葉に同じ。
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グレゴリオ暦的霜月朔日でございます。
一年前の過去記事から
一千余年前の過去ネタを
リサイクル活用させていただきます。
寛弘五年、西暦では一千八年、
この年の霜月朔日、
左大臣藤原道長様の土御門邸では
公卿や殿上人が招かれ、
盛大なる宴が催されておりました。
一条天皇の女御として入内させ、
先に中宮であらせられた定子様を
皇后宮と号させることにより
中宮と改めさせていたご長女彰子様が、
入内後九年にして第二皇子敦成親王を
めでたくご出産あそばされました。
その若宮のご誕生後五十日目の祝宴とあっては
まことに語り尽くせぬほどのめでたさでございます。
この宴の席で左衛門の督藤原公任様が
「あなかしこ、このわたりにわかむらさきやさぶらふ」
(おそれいりますが、
この辺りに我が紫の君はおいででしょうか)
と問われたと『紫式部日記』にあることから
西暦二千と八年が
「源氏物語一千年紀」とされたことは
周知の如くでございます。
「我が紫」を「若紫」と解する説もございますが
はてさて、いずれが正しいやら。
得意の絶頂にあらせられた道長様を囲んだ
華やかなる宴の様子を
紫式部が書き残した日記から
窺い知ることができます。
右大臣顕光様、内大臣公季様は共に
「酔ひみだれてののしり給ふ」。
あらあら、次席大臣にしてこれですか。
顕光様は
「御几帳のほころびを引き断ち乱れ給ふ」。
几帳のほころび、後で繕わせますので、
どうぞ引っ張らないでおいてくださいませ。
しかも「さだ過ぎたり(いい歳をして)」
と言われるのを無視して、
女房相手にはしたない戯れ言など
おっしゃっていらしたご様子。
公季様、
礼儀正しいご子息が父の前をはばかって
下座から進んだことに
「酔ひ泣きし給ふ」って
かなりの泣き上戸でいらしたのですね。
後に右大将となり
「賢人右府」と称されたほどの
有識者でいらした権大納言実資様は
女房たちの衣装の裾や袖口の重なりを
数えていらしたとは
賢人らしくもない他愛なさ。
権中納言隆家様。
定子様の弟君でいらっしゃいます。
清少納言がご贔屓の
ぼんぼん兄君伊周様とはご性格が異なり
丹生谷好みの気骨のある御仁であらせられますが
この宴では隅の柱によりかかって
女房の袖を引いたりなさっていらしたようで。
「おそろしかるべき夜の御酔ひなめりと見て」
紫式部は今一人の女房と申し合わせて隠れようと
御帳の後ろに逃れるのですが、
道長様にみつかってしまいます。
「和歌を仕うまつれ(詠め)」
「さらばゆるさむ」
と詰め寄られ、とっさに、
いかにいかが数へやるべき八千歳の
あまり久しき君が御代をば
八千歳にも余りある若宮の御齢を
どうしてどのように
数えることができましょうか。
「五十日(いか)夜の祝」の
「いか」を読み込んだ辺り、
さすがは紫式部、
酔っ払いに詰め寄られての即興にして
これでございます。
「あはれ(あっぱれ)」
と感じ入った道長様も
即興でお返しあそばされます。
あしたづの齢しあれば君が代の
千歳のかずも数へとりてむ
千年生きるという鶴の齢さえあれば
若宮の千年の御齢を数え取ることもできよう。
酩酊して女房に絡みつつも
即興で和歌を詠むだけの
知性と分別を失っていないとは
これまたさすがは大物でいらっしゃいます。
位人臣を極められ、一の人となられた道長様。
十年の後には、娘を三人までも后に立て
「一家立三后、未曾有なり」
と賢人右府実資様に言わしめた、
その祝宴の場で、
この世をば我が世とぞ思ふ望月の
欠けたることもなしと思へば
と詠んで
実資様を戸惑わせられたようでございます。
実資様の日記『小右記』より。
『史記』にも
「月満つれば則ち虧く」とございます。
この世を我が世と思うほどに
栄耀栄華を極めた道長様も
晩年は糖尿病で苦しまれたようでございます。
本日の学び。
したたかに酔ってギャグを飛ばすのは
あふれる教養に根ざした日本の伝統ということで。
教養のある方もない方も
ギャグでも飛ばし
笑って一日をお過ごしくださいませ。
旧暦弥生三日。
上巳の節供でございます。
王羲之が「蘭亭序」に
「暮春の初め、
会稽山陰の蘭亭に会す。
禊事を脩(おさむ)るなり」
と記したのは
永和九年、西暦三百五十三年、
癸丑の年のこの日。
「是の日や、
天朗らかに気清く、
恵風和暢せり」
空は晴れわたり空気は澄み、
春風がうららかに流れていた、と。
禊ぎを行い、
曲水の宴を張って
流水に觴を浮かべ
觴が流れくる前に
それぞれが詩を詠む。
なんとも優雅なことでございます。
「蘭亭序」の書としての貴重さは
言わずと知れたことですが
書かれた内容も
どうしてなかなか味わい深いもの。
長文ゆえ、全訳には
またの機会に挑戦するとして。
「世殊に事異なりと雖も、
懐(おも)ひを興す所以は、
其の致一なり。
後の攬(み)る者も、
亦将に斯の文に感ずる有らんとす。」
時代が変わり、事物が異なっても
思いを起こすところの所以はひとつ。
後の世にこれを見る人は、
この文に同じく感ずるであろう、と。
後世の人に
思いが伝わるような、
そんな言葉を紡ぎ出したい
ものでございます。
定子中宮様が御父君の服喪中、
朝所で過ごされた七夕の折のことなんだけれど。
宰相の中将斉信様が、中将の源宣方様、
少納言の源道方様とご一緒に訪ねていらして。
女房たちが端近に出て応対していたところに
いきなり
「明日はどんな詩を吟じられるのかしら」
と問いかけてみたの。
斉信様はほんのちょっとためらって、
すぐに
「人間の四月だね」
とお答えになったのが、
もうほんとに「をかし」。
過ぎたことなんかを心得ていて言うのは
誰だって「をかし」だけれど、
女は特に過去を忘れないものよね。
男はそうでもない、
自分が詠んだ歌だってうろ覚えだったりするのに、
斉信様ったら、最高に「をかし」だわ。
御簾の内の女房たちも外の殿上人も、
「なんのことだか、ちっともわかんない」
って顔してるのも無理ないの。
四月の初め頃、
内裏の細殿に殿上人が大勢いらしてたんだけれど。
それがだんだん一人ずつ退出されて
斉信様と宣方様と蔵人一人だけが残って、
おしゃべりしたり歌を詠じたりしていたのね。
斉信様が
「露は別れの涙なるべし」
なんて菅原道真の詩を吟詠し始められて、
宣方様も一緒に
趣深く誦じたりなさったんだけれど。
これって、織姫と彦星の別れの朝の詩ですもの、
「気の早い織姫ですこと」
って、申し上げてみたのよね。
もう、斉信様の悔しがったことったら。
「ただ暁の別れというだけで
思いつくままに口にしたのに。
いやんなっちゃうなぁ。
この辺りじゃ、この類のことを
よく考えずに口にすると
恥をかくんだから」
とお笑いになって
「人に話しちゃいけませんよ。
笑いものにされちゃうな」
とおっしゃって、
外が明るくなってきたので
「退散しなくっちゃ」
と逃げるようにお帰りになったの。
「七夕の折にこのことを申し上げたいわ」
と思っていたものの、
その後、斉信様が参議になられて、
七夕にお目にかかれそうにない。
「その前後にお見かけすればよし、
そうでなければお手紙を書いて、
主殿寮に持たせようかしら」
なんてもくろんでいたら、
ちょうど七月七日にいらっしゃったので
もう嬉しくて、
「あの夜のことなんか申し上げても、
おわかりになるかしら。
ただいきなり申し上げても
変なのって妙に思われるかしら。
そうしたらあの日のことをお話しよう」
なんて思ってしたことなのに。
少しも迷わずお答えになったのは、
ほんとうに「をかし」だわ。
拙訳
『枕草子』第百五十五段「故殿の御服の頃」より
「書は人なり」などと申しますが、
書には書いた人の人となりがおのずと表れるもの。
中国唐代の書家・柳公権は
書の上達法を問われ、
「用筆は心にあり、心正しければ筆正し」
と答えたそうな。
パソコンのキーボードを打ちながら
いきなり背筋が伸びまする。
正倉院で知られる聖武天皇の御妃・光明皇后は
東大寺・国分寺・国分尼寺の建立に貢献し
悲田院・施薬院を設置するなど仏教信仰に篤い、
慈悲深いお方でいらしたことが知られています。
お名前の「光明子」は光り輝くように
お美しくあらせられたことから。
私の名前は「真美」ですが、それはさておいて。
奈良の薬師寺に祀られる国宝・吉祥天女画像は
光明皇后の美しいお姿を写したものと伝えられ、
また皇后は藤原道綱母、衣通姫とともに
「本朝三美人」と謳われています。
『尊卑分脈』に道綱母が
「本朝第一美人三人内也」と記されている以外は
出典不明、ならびに選考基準も不明。
時代の隔たりが少々突飛ではございますが
それぞれ数百年に一人しか出現しないほどの
類稀なる美しさであられたということで
この場はさりげなく流すといたしまして。
光明皇后については、
その慈愛の深さ、心の清らかさゆえに
さまざまな美談伝説が伝えられています。
ご病弱な聖武天皇を支え、
平癒を願って仏教に帰依した、
姿も心も気高き、天女のように美しき皇后。
こうした日本史の教科書で読んだような解説から目を転じ
さて、正倉院に遺された聖武天皇の宸翰と
光明皇后の筆による書の筆跡を比べ見ますと、
教科書の記述には見えなかった「人」が
いきいきと見えてきます。
ご病弱であらせられたという聖武天皇の宸翰は
素人目にも柔らかく、細い線で
丁寧に書かれている。
一方、光明皇后の書は、堂々として力強い。
その筆跡からは、気丈で
しっかりとした意志を持った女性、
優しさだけではない、
毅然とした強さを兼ね備えた女性の姿が思い浮かびます。
千数百年の時を経ても
書とはかように書いた人の人となりを物語るもの。
書いた字が人柄を語るとあらば
「字は苦手」で放っておくわけにはまいりません。
こつがわかれば、字は確実にきれいになります。
きれいな字を書くこつをお教えしております。
【きれいな字を書く美文字講座】 全10回
自己流の癖を直しつつも、持ち味や個性は残して
万年筆やペン、筆ペン、毛筆で、
柔らかでなめらかな字が書けるようになります。
ひらがなのこつ、正しい字の形、くずし方。
漢字のこつ、部首の形、くずし方、楷書と行書。
字を書くことに自信が持てるように
丁寧にお教えいたします。
思い立ったが吉日、善は急げとも申します。
どうぞお気軽にお問い合わせくださいませ。
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