カテゴリー「書籍」の記事

2009年10月28日 (水)

新連載!

一年半にわたり執筆してまいりました雑誌【なごみ】の連載コラム「次世代に伝えたい作法の心」も、十二月号で最終回を迎えます。

当初一年間十二回の連載予定でしたが、お蔭様でご好評をいただき半年間延長、十八ヶ月もの長きにわたり、愉しみながら書かせていただきました。

読者のほとんどは茶道に関わっていらっしゃる方々、そしてテーマは「マナー」。普遍的とも言えるこの題材について、わざわざ丹生谷が書くからには、限られた文字数の中でできる限り、丹生谷ならではの視点、これまでにない切り口から語りたい。そんな心意気で毎回取り組んでまいりました。

ご購読いただきました皆様には、心からお礼を申し上げます。まだご覧になっていらっしゃらない方々には、こちらでバックナンバーをお求めいただけます。

来春からは、雑誌【暮しの手帖】で新たに連載コラムを執筆いたします。

こちらでのテーマは「手紙」。拙著『たて書きの手紙』(残念ながら絶版)や『美しい人の美しい手紙』を読んでくださった方々にも愉しんでいただけるような、心に残る連載にしたいと意気込んでおります。どうかご期待くださいませ。

お礼とご報告まで。

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2009年9月26日 (土)

迷いの雲

さすがは我が師、新免武蔵殿。天晴れ、お見事です。

五輪書】に書かれたひとつひとつの言葉を、今一度まっすぐにに受けとめようと、心に染みわたらせていくうちに、からりと晴れた今日の空のように、心が透き通っていきました。

これまでも、ここでも、ここでも、そしてここでも、くどいほどに繰り返し触れておりますのに、今また改めて感服いたしております。

迷いの雲が生じた時はこの一冊。自ずから雲は晴れ、道は開けます。お奨めです。

まよひの雲の晴れたる所こそ、
実の空(くう)と知るべき也。
空を道とし、道を空と見る所也。    宮本武蔵

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2009年5月 2日 (土)

歴史を振り返る

連休には読書などいかがでしょう。ご自身の歴史観を再確認なさるには、おあつらえむきの一冊でございます。

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2008年10月 2日 (木)

『なごみ』by淡交社

昨年春の創刊号より一年間連載しておりました、世界文化社の雑誌『GRACE』の巻頭コラム「今、グレースな手紙が書きたい」は、この春、「大人の恋文」をもって終了いたしました。

恋、仕事、家族、友人、旅。人生を愛する四十路半ばの一女性になりきって毎月の手紙文を書くのは、心から愉しい作業でした。

その『GRACE』が十二月号をもって、休刊になるとのこと。一抹の寂しさを覚えます。

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。振り返らずに前に進んでまいりたいと存じます。

この夏より、『なごみ』の連載コラム【次世代に伝えたい作法の心】を執筆しております。

『なごみ』は淡交社が「茶のあるくらし」をテーマに発行している月刊誌。淡交社は裏千家の出版社、荘子の言葉「君子の交わりは淡きこと水の若し」を社名の由来としています。

書店の書棚にはタイトルに「マナー」を冠した本がずらりと並び、インターネット上にはマナー伝授のサイトが乱立している昨今。

一方で、人の文章と自分の文章の区別がつかず、糊と鋏で自分の考えたことのように言葉を並べる輩が蔓延しているのは、まことに憂えるべきことでございます。

「自分にできること、自分にしかできないこと」を座右の銘とする丹生谷は、人がしていること、人にもできることはしたくない。だからこそ、文字通り月並みと言えば月並みな「マナー」「作法」などというテーマを、丹生谷でなければという視点から、月毎に、意気込んで書き綴っております。

これまでの内容は、「挨拶は心から心へ」「上座下座で迷った時は」「訪問の心得」「おいとまごいの美学」。短いコラムながら、丹生谷の心意気を読み取っていただければ、恭悦至極に存じます。

『なごみ』、どうぞよろしくお願いいたします。

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2008年9月28日 (日)

薯童謠、朱蒙、大化改新。

『宮廷女官チャングムの誓い(原題『大長今』)』の余韻に身を委ねるうちに、朋あり遠方より来たりて、『薯童謠』のDVDを拝借することに。また楽しからずや。

百済と新羅、敵国同士の王子と姫の許されない愛の物語は、勧善懲悪、貴種流離譚、復讐あり、活劇あり、夢あり、理想あり、権力争いあり、悲恋あり、と娯楽演劇のあらゆる世俗的要素がふんだんに盛り込まれ、丹生谷の趣味嗜好から申しますと、まずまず極上のできかと。

何しろ、有吉佐和子著『真砂屋お峰』級(当社比)の涙腺刺激型、まっすぐ一直線ひたむき一途の相思相愛、正統派純愛物でございまして。『大長今』と同じ脚本家、演出家の作品だそうですが、前作よりかなり甘めの味つけでございました。

貧しい民として育った主人公が、愛に支えられ、数多の試練を乗り越えて、ついに百済王として即位。民のために国を豊かにすることを志し、土地改革や税制改革、水田の開発、灌漑施設の完備などの国策を掲げ、さらなる困難や障害に立ち向かいながらも信念を貫き、貴族の権力に牛耳られていた国家体制を立て直していく。まことによくできたお話でございます。

かように清く正しき志に燃えたまつりごとが、現実の世にもあらまほしきものですこと。

和辻哲郎著『日本精神史研究 』(岩波文庫)によれば、「まつりごと」は本来「祭事」であって、祭事は支配階級の利益のためではなく、民衆にとってこそよかれと行われたもの。庶民の生活とは無関係な、権力や私利私欲のせめぎ合いであってよいはずがありません。

このたび首相になられた御大も、十七条の憲法の精神に立ち返り、民が平和に豊かに暮らせる国を再建するためのまつりごとを志してくださいますよう、祈念いたしております。

さてさて、『薯童謠』を堪能した後は、こちらで『朱蒙』。すでに古代史にどっぷり浸かってしまったこの身、高句麗を建国した伝説の英雄、東明聖王の物語と聞いては、今さら逃れようもございません。

一日は二十四時間、すでにフル回転している丹生谷としては、延々八十一話も続く『朱蒙』を観る時間を捻出するには、睡眠時間を大幅に削るしかない。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり。この際、睡眠時間を削ってでも観てしまおう、と観始めてしまいました。

本題からは外れますが、『朱蒙』関連でひと言言わせてくださいませ。

時事通信によれば、去る二十二日、常用漢字の見直しを進めている文化審議会の漢字小委員会が、「私」の訓読みに「わたし」を追加するか、現行の「わたくし」と入れ替えるかなど、読み方を議論したそうな。

また「蒙」は、使用例が「蒙古」という固有名詞に片寄っていることなどから、常用漢字にふさわしくないと判断、外すことに決めたらしい。 

文化審議会漢字小委員会とは名称ばかりは立派そうですが、さぞや「公」と「私」の区別もつかない、広く一般を啓蒙しようなんて気はさらさらない、軽薄なお歴々の集まりでありましょうな。

軽く揶揄してみただけのことですので、お気になさらず。

さて、『朱蒙』も三分の一程を観終わったところで、高句麗の祖とされる朱蒙(チュモン)の伝説を、かくもドラマティックに構成し、現代人好みの娯楽歴史物語に仕立て上げ、国内の視聴率はもちろん、外貨をも稼ぎ、さらには観る人の愛国心を育て、自国の歴史に誇りを持たせることに成功した脚本家並びに演出家に脱帽いたしました。『大長今』然り、『薯童謠』然り。

大長今も薯童謠も朱蒙も、いずれも、韓民族の歴史に名を残した英雄や女丈夫の物語です。

日本にだって、日本武尊、聖徳太子、天智天皇、天武天皇と、語って聞かせたい建国の英雄の物語はいくらでもあります。

「愛国心」と言っただけで、右翼扱いされかねない、愛国心が欠落したこの国で、未来への希望や母国への誇りを持てない現代の無気力な若者たちに、かつて建国の理想に燃えた若者たちが、いかにこの国を築き、歴史を作ってきたかを語ってやってほしい。

NHK様、よその国のドラマを輸入して、視聴率を稼いでいる場合でしょうか。日本の古代を描いた正統派の歴史ドラマを真剣に制作なさってみてはいかが。

たとえば、聖徳太子に始まり、乙巳の変、白村江の戦い、壬申の乱を経て、天武天皇の治世、大宝律令に至るまでの物語。脚本と演出と出演者次第ではありましょうが、視聴者の心を打つ、民族の誇りを呼び覚ますような歴史ドラマの材料が揃っているではありませんか。

NHKドラマが駄目なら任天堂のゲームでもいい。宮崎駿のアニメでもいい。

あれやこれや、この国のためにと、ない知恵を絞り、思いをめぐらせておりましたら、ややっ、AmazonにてNHKドラマスペシャル『大化改新』と『聖徳太子』のDVDを発見。

丹生谷の思いつく程度のことは、既にどなたかが考えていらしたということでしょうか。

何を目指したどのような作品やら、この目で確認せねば、と、即、Amazonで購入手続きを取りました。

いつになるやらわかりませぬが、観終えました折には、ここでご報告いたしましょう。

今宵はこれにて。

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2008年9月18日 (木)

正座、韓流、日本書紀。

丹生谷の不得手のひとつに、正座がございます。

二十歳そこそこの若輩でしたら「正座できないんです」などとのたもうても許されましょうが、齢を重ねて正座の姿勢が保てないのは見苦しいことで。

「左右の親指を重ねれば楽」なんてお気楽なことをおっしゃる方もおいでですが、親指が重ねられるくらいなら、苦労はございません。

しびれが問題なのではなく、まず足の甲が痛くなり、そのままの姿勢を維持しておりますと、やがて四六の蝦蟇さながらに脂汗が滲み出てまいります。

かような拷問にも似た座り方を「正座」と呼び、正式な場でこの座り方を義務づけることに、いかなる意義があるものか。

お上から庶民まで、この座り方をするようになったのは、少なくとも江戸時代以降のことと思われます。

検証一。高台寺に伝わる豊臣秀吉像をとくとご覧あれ。笏を手にした束帯姿にあぐら。足の裏を合わせています。伝源頼朝像も然り。あぐらが、男子の第一正装にふさわしい正式な座り方であった事実を物語っています。

ちなみに、あぐらを「胡坐」と書くのは、胡瓜、胡麻、胡桃などと同様、遠い昔、西域の民族より伝わったものと思われます。

検証二。同じく高台寺は北政所高台院の像並びに肖像画をご覧あれ。いずれも、お数珠を片手に右膝を立てた、立て膝の構えです。正装にふさわしい婦女子の正しき座り方は、立て膝であったに相違ありません。

光明皇后も、定子中宮も、式子内親王も。かつて、やんごとなき方々は緋袴の下で、立て膝でいらしたのです。お隣の韓国では、今でも女人は膝を立て、あるいはあぐらをかいて座るそうです。

という話題から、過ぎにし初夏の某日、受講生のおひとりが
「韓国ドラマ『宮廷女官チャングムの誓い』では、女官も王様の前で、片膝を立てたりあぐらをかいていました。パソコンでもご覧になれますよ」
とギャオなる無料動画サイト(現在は韓国ドラマサイトKOREAN TIMEで視聴可能)をご紹介くださいました。

テレビは一切見ない丹生谷ですから、これまで韓国ドラマとは無縁に過ごしておりましたが。その夜、半信半疑で『宮廷女官チャングムの誓い』を鑑賞。これをきっかけに、ひと際燃える夏を迎えることになろうとは、まこと、神の思し召しか、御仏のお導きでありましょうか。

何しろ、この『大長今』(原題)。十六世紀初頭、李朝宮廷を舞台に展開する一女官の出世劇なのですが、ドラマとしての卓越したできばえに加えて、座り方に始まり、食事作法、挨拶などの生活習慣はもちろん、衣食住にまつわる風俗諸礼やら言語やら、とにかく興味が尽きない。ブログの更新も放棄して、『大長今』の更新を愉しみに、最終回まで夢中で観てしまいました。

言語ひとつとっても、倭国と朝鮮半島の歴史にあれこれ思いが巡ります。

劇中、「この件はうやむやにしてしまおう」というような台詞があったのですが、はっきり「ウヤムヤ」と言っている。えーっ、「うやむや」って漢語ですかっ、と辞書を引いてみたら、おおっ、「有耶無耶」とあるではないか。ひとつ賢くなりました。

どちらも中国文化圏ゆえ、漢語の流用語彙を共有しているのは当然のことですが、語彙以外にも、文の構成、語感、音の響きなど、ぼんやり聞いていると、訛りの強い方言と思える程度に、よく似ている。

大野晋氏が『日本語はいかにして成立したか』に、日本語と朝鮮語の関係について書かれていたことを思い出し、書棚に埋もれていた文庫本を発掘。

なるほど、なるほど。以前はさらりと読み過ごしていた文章が、立体的に理解できるような気がして、両言語、両文化の関連に、興味が倍増いたしました。

朝鮮語は日本語同様、擬態語が多いそうです。『日本語はいかにして成立したか』によれば、水はチョルチョル流れ、風はサルサル吹くらしい。共通の言語感覚が感じられませんか。

『大長今』で、言語を中心に日韓の歴史に目覚め、その余韻で、次は『薯童謠〔ソドンヨ〕』に突入。こちらは時代をさらに遡り、西暦六百年頃を背景にしたドラマ。韓国に伝わる百済武王の伝説を題材に描き出された恋の物語です。

「百済の王子と新羅の姫の運命の愛」だなんて、いかにも俗っぽい解説に、どうしたものか妙に反応いたしまして。ちょっとだけ」と観てみたら、これがまた、演出が巧い。ついつい見入ってしまう羽目に。

奈良の石上神宮に、紀元四世紀後半、「百済王から倭王に贈られた」との銘文が入った国宝「七支刀」が伝わっております。前述の『日本語はいかにして成立したか (中公文庫)』にも、第一期渡来人、漢人の子孫がもたらした刀として、写真付きで紹介されております。

劇中、儀式の場面になると、この七支刀が登場して、「こういう使い方をしたのかしら」とわくわく。衣装やら、装飾品やら、道具やら、風俗やら、時代考証はさておき、豪華絢爛な演出に、「日本もこうだったのかしら」と想像をかきたてられ、前頭葉が古代史にぐいぐいと引っ張られて、前のめりになっていく感触。

倭国と高句麗、新羅、百済の三国の歴史にますます関心が高まり、『日本書紀』を改めて紐解きました。

七支刀の銘文については、諸説ございまして。日本側は、『日本書紀』の記述から、属国であった百済が倭国に「献上」したものと解釈、韓国側は、百済が属国の倭国に「下賜」 したものだと主張。

歴史解釈における見解の相違ですが、結局のところ、対等の独立国である両国が、軍事同盟を結んだ記念に百済から倭国に贈られた、という結論で、この論争は一応落ち着いたようです。

広開土王碑についても、「新羅・百済は高句麗の属民であり、朝貢していたが、倭が辛卯年、○を渡り、百済を○○、新羅を破り、臣民とした」即ち、「高句麗の属国であった新羅・百済が倭国の支配下になった」とある碑文は、大日本帝国陸軍が改竄、捏造したものという理不尽な説がかつてあり、こちらは先年、ようやく解決いたしましたが。

いやはや。竹島問題については、日本国固有の領土ということで、ご納得いただきたいものです。

日韓問題はさておいて。

正座から、韓国時代劇へ、そして『日本書紀』へ。丹生谷の熱い夏の物語、さらに続きますが、今宵はこれにて。

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2008年8月19日 (火)

知足守分

美しいキモノ 2008年秋号、「この秋の私のお買い物」、316頁に、丹生谷が所有する小物が少しばかり紹介されております。

世の風潮を見るにつけ、我が身は「知足守分」でありたいと願っている丹生谷でございます。己の時間の過ごし方に敢えて優先順位をつけるとすれば、「お買い物」が上位に挙がろう由もなし。

されば、ご覧に供するほどの物とてございませんが、ま、「身の程をわきまえた、愛い奴」と笑ってやってくださいませ。

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2008年6月26日 (木)

ご覧ぜられたし

世界文化社の雑誌

GRACE (グレース) 2008年 07月号

「心配りのお中元-お中元の麗人になるために」の頁で、お中元をお贈りする際の手紙の書き方について、丹生谷が解説いたしております。
見本の手紙四通を写真でご紹介するなど、わかりやすい内容に編集されております。
心構えはもちろん、文章、用箋選び、紙面構成など、ご参考になさっていただければ、恭悦至極に候。

淡交社の雑誌

なごみ 2008年 07月号

新連載「次世代に伝えたい作法の心」がスタートいたしました。
第一回は「挨拶は心から心へ」。短いコラムではございますが、丹生谷ならでは、とおっしゃっていただけるような内容にできればと、精進いたす所存にて候。

どちらもぜひともご覧ぜられたし。

 

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2008年3月15日 (土)

千とせの前の世

「のちほど」とあっさり書いたあの日から、光陰はただ過ぎに過ぎ。
あの日はつい昨日のようでもあり、はるか昔のようでもあり。

与謝野晶子は

きのふをば千とせの前の世とも思ひ
御手なほ肩に有りとも思ふ

なぁんて詠んでおられます。

うーん、さすがです。恋する女心を歌わせたら、一に和泉式部、二三は不在、四に与謝野晶子。
なまめかしき女心が歌になってあふれ出る恋愛歌人体質、まことに羨ましゅうございます。
ま、与謝野晶子も和泉式部も今夕の本題ではございません。

昨日のことか昔のことか、アインシュタインの相対性原理に光速不変の原理なんてものがあったように、かすかに記憶しておりますが。
物理学はさっぱり、ですので、これもさっと流していただいて。

そうそう、藤原公任卿でした。

公任様は道長様と曾祖父を同じくする遠縁同士。

「懈怠者」「如泥人」と言われながら、闊達自在、勢いにあふれた書では右に出る者なし、丹生谷が憧れる佐理様、『小右記』に辛辣な道長批判を書き残した気骨の学識人、右大臣実資様は、お二方とも公任様と従兄弟同士のご関係でいらっしゃいます。

身は平成の世にありながら、魂は王朝の時代を彷徨う丹生谷は、上達部、殿上人の方々とは、もうほとんどご近所感覚のおつきあいをさせていただいております。

公任様と道長様は同じ年の生まれ。俗語では「タメ」と申します。為になる知識ではございません。

浮気夫への恨みつらみを綿々と書き連ねた『蜻蛉日記』の「夫」とは藤原兼家様のこと。道長様は、兼家様ともうひとりの妻、時姫様の末子であらせられます。長兄は、我が敬愛する定子中宮の父君、中関白、道隆様におわします。

教養深く、文芸に並外れた才能を持っていらした公任様のことを羨んで

「公任はあのように何ごとにも優れ、羨ましい。我が子らは公任の影だに踏めそうにないのは口惜しいことだ」

と嘆く父君、兼家様に、道隆様と道兼様、お二人の兄君は返す言葉もなくうなだれていたところ、若き道長様は

「影をば踏まで、面をやは踏まぬ」(影なんか踏まないで、面を踏んでやりましょうぞ)

と言ってのけたという逸話が、道長様を語る武勇伝のひとつとして『大鏡』にございます。

公任様は権力の道からはずれておしまいになり、正二位権大納言どまりでしたが、一方の道長様はかつての強気の言葉通り、のちに栄耀栄華を極められ、

この世をば我が世とぞ思ふ
望月の欠けたることもなしと思へば

と詠じられる勢い。あまりに尊大なる歌いっぷりに、「賢人右府」と呼ばれていた実資様が眉を顰められたのは、周知の如くでございます。

道長様が大井河逍遥の折、船を三艘ご用意あそばされ、一艘には和歌、次の一艘には漢詩、最後の一艘には管弦、それぞれの道に優れた人を乗せて遊ぼうという趣向がございました。

そこに公任様がおいであそばされると、道長様は

「いったいどの船にお乗りいただいたものか」

とおっしゃったとの逸話が、これも『大鏡』にございますことから、「三船の誉れ」などと言い伝えられている次第でございます。

公任様は

をぐら山嵐の風の寒ければ
紅葉の錦着ぬ人ぞなき

と詠まれた後で

「漢詩の船に乗って、この和歌くらい巧い詩を詠んでいれば、もっと名を挙げたろうに。殿に褒められて、我ながらついつい調子に乗っちゃって」

とおっしゃったそうな。これまた『大鏡』に語られていることでございます。

影だに踏めないはずであった道長様に褒められて喜んでいるなんて、公任様ともあろうお方が、丹生谷としてはちょっと情けない。男子たるもの、権力におもねることなく、志と信念を持ってまっすぐ進んでいただきとう存じます。

なかなか本題に入りませんが、「少し春ある心地」から早ひと月余り、今は暮れなずむ春の空、どうかゆっくりとおつきあいくださいませ。

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2007年7月15日 (日)

読書

台風4号接近のため、昨日14日の京都教室は急遽お休み。あれこれ予定していたことはすべて延期して、三連休はゆったりと過ごすことにいたしました。

これぞ御仏のお導きかと、かねてより、気にかかっていた本棚の整理を始めたはいいが。

これがシジフォスさながらの果てしない作業でございまして。シジフォスがおわかりにならない方はギリシャ神話をお読みくださいませ。

世の中に書物なるものは星の数ほどもありましょうが、その中で、与えられた人生の限られた時間に、ぜひとも読むだけの価値あり、と認められる本はごくごく一部。

その一部も、大半は一度読んだら、それで納得できる本。この類は、読み終えますと、即、処分しております。

よって丹生谷の本棚には、感銘を受けた本、手元に置いて、折につけ読み返したい本のみを残しているはずなのですが。

ところがどっこい、本棚があふれ返って、探したい本がみつからない昨今の本棚事情。

問題は、一読の価値はあり、と入手したものの、優先順位の関係から、いまだ読むに至っていない本が多いこと。そして、それら、やがては去るべき運命にある本が、行き場もなく、どんどん増えていること。

枕元に本が山積み、これぞ枕草子だなんて、入門レベルの洒落を飛ばしている状況ではなくなってきております。

いやはや、かくなる次第で、昨日は専ら本の分類に明け暮れ。やがては処分されるであろう本を、ずらり山に積みも積んだり、何が何でもこれらに先に目を通す、と固く決意いたしました。

当然、今日は、まず山の頂きから、とすべきでしょうが。

ふと手にとって、ついつい読みふけってしまった、森鴎外の『山椒大夫』。久しぶりに安寿と厨子王の盲いた母になりきってしまいました。

安寿恋しや ほうやれほ 
厨子王恋しや ほうやれほ
鳥も生あるものなれば
疾う疾う逃げよ 逐わずとも

午後2時半現在の東京は、しのつく雨もおさまって、雲の切れめにうっすら青い空が覗いております。

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2007年7月 5日 (木)

花は見る人の心にめづらしきが花なり。
住するところなきをまづ花と知るべし。  世阿弥元清

まよひの雲の晴れたる所こそ、
実の空(くう)と知るべき也。
空を道とし、道を空と見る所也。    宮本武蔵

したいことはとうてい成し遂げられるとは見えず、しなければならないことは目の前にずらりと並んでいる。

心が迷いを覚える時、手にするのは、世阿弥元清著『<風姿花伝』、そして宮本武蔵著『五輪書』。

若き日より今日まで、繰り返し読んできたこの二冊、丹生谷にとっては、道を説き、導き、励ましてくれる人生の指南書です。

世阿弥と武蔵が共に説いていること、それは一に稽古、二に稽古、とにかく稽古、不断の稽古。

能ではない、剣でもない、真善美に至る道をこそ究めたい、求道者である自分にとって、稽古とは何ぞや。

自分自身に問うと、なすべきこと、進むべき道が見えてきます。

遠い過去に生きた偉大なる先人を、書物を通して、今に生きる自分の師とすることができる。これほどの果報がありましょうや。

千日の稽古を鍛とし、
万日の稽古を錬とす。    宮本武蔵

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2007年6月15日 (金)

美しい言葉

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、神があなた方に望んでおられることです。
  テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5.16.-18

受講生の課題提出物に引用されていた聖書の言葉です。

美しい言葉は、読み返すたびに心いっぱいに広がって、深く、深く沁みわたっていきます。

いつも喜び、祈り、感謝する人でありたいですね。

美しい言葉を思い出させてくださった乙姫御前に、心から感謝いたしております。

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2007年6月13日 (水)

気分はイライザ

現在、書店に並んでいるもろもろの雑誌の中で、丹生谷がお手伝いさせていただきましたものをご紹介いたします。

【GRACE】 「今、グレースな手紙が書きたい」。こちらは毎月連載。きれいな手紙を書くためのヒントが盛りだくさん。その月の言葉と、その言葉を盛り込んだ手紙文にご注目ください。

【40代からもっときれい】Vol.10、「言葉美人になる日本語レッスン」。この機に、日本語を再確認なさってみるなど、いかがでしょう。

変わったところでは

【展コミ】創刊号「丹生谷真美のこころの歳時記」。こちらも毎号連載中。今回のテーマは「知っていますか、花や木の名前」。

すでに店頭にはございませんが、

【クロワッサン】2007年3月25日号 「美しい文字で書く、手紙とはがき練習帳」。こちらはバックナンバ-として入手可能です。とても便利、とご好評をいただいております。

手紙や日本語、歳時記なら、お手伝いも合点もいこうが、思いがけないところでは

【週刊ギャロップ】新創刊第2号にも丹生谷がちらっと登場しております。

こちらの写真です。

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勝利の興奮冷めやらぬ優勝馬ポップロックを横に、馬主の君と武豊騎手に挟まれて、無関係にしては幅をとって、かなり偉そうに見える丹生谷でございます。

週刊ギャロップは、サンケイスポーツ新聞系列の競馬雑誌です。

去る5月27日、競馬未体験の丹生谷を、日本ダービー観戦にぜひ、と紫陽花姫がお招きくださいました折。馬主席にて文字通りの高みの見物の後、この日の最後を飾った目黒記念の優勝記念写真に加わらせていただいた次第。

ポップロックの馬主であらせられるスーツ姿の紳士は、門下生の美人姉妹、雛罌粟(ひなげし)姫と紫陽花姫の御父君。御父君もハンサムでいらっしゃいますこと。

ちなみに「ハンサム」は、スペルは違うが、英国で19世紀に発明された二人乗りの馬車のことでもあります。さすが馬との縁(えにし)深し。

丹生谷も、鹿と重ねたり、齢を重ねたり、案外、馬との縁深しかしら。

この戯れ言の意味がわからない方は、【40代からもっときれい】Vol.10、「言葉美人になる日本語レッスン」で、日本語を鍛え直してくださいませ。

下の写真は表彰式。丹生谷がご案内いたしております。左手の建物の上の階から観戦いたしておりました。

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こちらは武豊騎手と。青い空にユニフォームがまぶしい。

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気分はイライザ、陽の光の降り注ぐ、アスコットならぬ府中競馬場にて。

紫陽花姫様、かようなおもてなしを受け、げに光栄の至り、恭悦至極に存じました。

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2007年5月16日 (水)

垣間見王朝文学手前味噌講釈

人は片足だけで遠くまで跳ぶことはできません。右足、左足と交互に出すことで、少しずつ、でも確実に前に進むことができるのです。

知性と感性は、両の足。五感を通して素直に感じ、心に響くことを丁寧に読み解き、思いを言葉にしてみると、感じていたことが、より鮮やかに、きめ細やかに見えてきます。

右、左、とたゆまず進めていくことで、ようやく「教養」などと言う、おごそかにして遥かなるものに至る道を歩むことになるのではないでしょうか。

学びて思わざれば則ち罔(くら)し。
思いて学ばざれば則殆(あや)うし。

諸橋轍次著『中国古典名言事典』より

孔子ものたまわっておいでのことで。

之れを知るを之れを知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れ知るなり。

なんて、これも論語、孔子のお言葉です。

かのソクラテス

彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、私は何も知りもしないが、知っているとも思っていない。

久保勉訳『ソクラテスの弁明・クリトン』より

なんてことをおっしゃっていらしたようで。賢人のお言葉は奥が深うございます。

知らないからこそ知りたい。学ぶことは、自分がいかに何も知らないかを自覚するところから始まるのですね。

教えることは、また学ぶことでもあります。

聞きかじっただけ、読んだだけの「うけうり指南」なら、誰にでもできること。

「自分にできること、自分にしかできないこと」をみつめ、我がこととして経験し、感じ、考え、学び、知り得たことを、わかりやすい言葉で伝え、知性と感性を片足ずつ進めていくようにお教えしたい。丹生谷の「教育方針」と申し上げては、ご大層な響きではございますが。

ちなみに「うけうり指南」は、小山観翁著『古典芸能うけうり指南』のタイトルから拝借。歌舞伎イヤホンガイドの解説者として、歌舞伎好きにはお馴染みの小山観翁氏は、江戸勘亭流書道の家元でもいらっしゃいます。著書も多数あり。

氾濫する情報を入手するもたやすくあれば、知的財産権やら著作権やらが云々されるほど、うけうりの知ったかぶりに陥りやすいご時世に、「うけうり指南」だなんて心にもないことを、さらりとおっしゃるところなんぞは、さすが、粋でいらっしゃいますこと。

古典芸能はさておき。古典文学のお話をしばし。

P33_2 (画像は京都、風俗博物館より)

ひと度足を踏み入れれば、もはや引き返そうなど思いもよらぬこと、古典の面白さに夢中になること疑いなしの、丹生谷の【垣間見王朝文学】講座なのですが。

マニアック過ぎるせいかしら、これまでにこの講座を受けられた門下生の数は、片手で数えきって、なお指が余ります。

かような状況のもと、自画自賛の意図はさらさらあらねど、以下、手前味噌の広報活動と思し召されたら、ごめんあそばせ。

丹生谷の講座はどれも、真髄を解いて、本質に至る方程式を見出し、それを立体的にお見せする方式、よそではあり得ない、「自分にできること、自分にしかできないこと」を目指す丹生谷の生き方そのもの、とこれは門下生にはご納得いただけることのはずにて候えど。

始まったばかりの【垣間見王朝文学】新クラス、受講生はお二方なれど、今回の主題は『枕草子』とあって、自称前世清少納言の丹生谷としては、気合が入らない訳がない。

積み上げられた座右の書のひとつ、『枕草子』、こたびは「春はあけぼの」から、一語一語を丁寧に味わいながら、読み始めてみました。

いやはや、面白い。萩谷朴氏の校注、今さらながらまことに奥深い。

この方のしつこいまでの問題意識と緻密なる分析能力、卓越した論理的思考力、何よりも学識の豊かさ、幅の広さと奥の深さ。もう感佩(かんぱい)、感服、完璧。ここでもまた、さても羨ましきは明晰なる頭脳かと。

旧聞にておそれいりますが、橋本治氏が『桃尻語訳枕草子』の執筆にあたって、萩谷朴氏校注の『枕草子』を底本としたことで、印税の一部を萩谷氏に支払われたという曰くつきの『枕草子』がこれ。「新潮日本古典文学集成」版です。両氏それぞれの「考えること」「書くこと」に向かう姿勢、あっぱれではありませんか。

ちなみに「あっぱれ」は「あはれ」を強調した語。「かっぽれ」とは無関係です。戯れ言なれば聞き流すべし。

『枕草子』を読み終えしのちは、参考文献として『大鏡』『栄花物語』『紫式部日記』を読み返し、さらに『類聚雑要抄指図巻』の重い頁を繰り、おまけに『源氏物語 六条院の生活』など眺めておりましたら、いよいよ怪しくも物狂おしい気分に突入。

ちょっと垣間見のつもりが、右足左足どころか、頭のてっぺんまで、『枕草子』にどっぷり浸っているここ数日。

問われもせで講釈するは甚だ無粋な振る舞いなれど、【垣間見王朝文学】という講座名は、「真美流垣間見」という洒落を隠しておりまする。ここからしてマニアックかしら。

ややや、高島俊男氏のお言葉を『漢字と日本人』より引用するならば、平安女流文学並みに「牛のよだれのごとく」「だらだらと書きつらね」た文章になってしまいました。浸りきっている証と、どうぞお許しを。

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2007年4月30日 (月)

のんびり読書

鮮やかな陽の光を浴びて、木々がきらきらと新緑の梢を揺らしています。

清々しい午後、休日気分で、窓から射しこむ光と風を愉しみながら、読みたかった本を紐解いて過ごしました。

このところ、読みたい本の数と読む時間の均衡が崩れ、読んでいない本がたまる一方。購入しては枕元に積んでいるので、これぞ枕草子、って洒落にもならない状態が続いておりました。

いつもは移動の乗り物の中や、深夜の寝床での読書がほとんどですが、昼下り、ソファーでの読書も、のんびりして、いいものですね。

合間にひと息ついてApril2007_014、 和菓子にお薄。お題「惜春」。

家で読む時こそ、重くて持ち歩けない厚い本がいい。『歩み 皇后陛下お言葉集』は、一行を追うごとに、爽やかな風が心を撫でていきます。

今日は崇拝する井尻千男先生の近刊『男たちの数寄の魂』。夢中になって読み終えました。

先日、大感動のうちに読み終えた唐木順三著『『中世の文学 』。帯に書かれた宣伝文には、「”すき”から”すさび”へ、そして”さび”にいたる中世の藝術理念の變貌昇華」を「歴史的に究めた(中略)中世研究」とありました。

男たちの数寄の魂』の帯には「歴史との和解の仕方―近代日本の宿命としての二元論を生きた男たち」とあり、「創造者を夢見ることではなく、継承者の醍醐味を追及すること、それが数寄者の魂ではないのか」と。

いずれも美なるものの系譜をたどり、真なるものを追った名著。心を揺さぶられた二冊でした。

嗚呼、それにしても。げに羨ましきは明晰なる頭脳なるかな。

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2007年4月17日 (火)

げに羨ましきは

唐木順三著『中世の文学』。

「超」レベルの速読みらしい丹生谷には珍しく、じっくり取り組んで、ようやく読み終えました。一行一行を著者の意図するままに理解したい、と何度でも繰り返し読んでいると、頁を繰るのが遅いこと、遅いこと。

比べること自体が身の程を知らぬ愚行なれど、それにしても、うーん。なんという明晰なる頭脳でありましょうぞ。

鴨長明や卜部兼好のこと、さらっと撫でるような浅い読み方しかできず、これまで勝手な解釈をしていた自分の愚かさを痛感、反省。

丹生谷ごときが何を語れよう。すぐれた一冊に感動したい方は、まずは読まれたし。すでに絶版なれば、丹生谷愛用の古書検索サイト本の枝折などご参照ください。丹生谷はもはやこのサイトなしでは生活できません。

はぁー。それにしても。げに羨ましきは明晰なる頭脳なり。

せめて今ある少ない脳細胞を大切にせっせと磨きあげ、これ以上老化しないよう、努めるしかないか。

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2007年4月 5日 (木)

伊勢貞丈『包結記』

丹生谷が師と仰ぐ伊勢貞丈先生の御著『包結記』 が、このたび淡交社より復刻版として刊行されました。さてもめでたや。

これまで、国立国会図書館の近代デジタルライブラリー なるものを通して原本を複写したものですら、いとありがたきものと崇め奉って、なめるように拝読することで甘んじておりましたゆえ、発売を待ちかねて購入。

昭和六十二年図書刊行会刊行の復刻版『包結図説』を探し続けてきた日々とも、これにてめでたく訣別、淡交社に感謝しております。

装丁やら解説やら価格やら、不満がないではないが、いやいや、贅沢は申しません。復刻されただけでもありがたきことにござりまする。

伊勢貞丈先生の御著書の中でも、『貞丈雑記 』の平成六十一年刊、平凡社東洋文庫の復刻版全4巻は丹生谷にとってはまさしく『聖書』。何十回読んでも飽きることがありません。読んだそばから忘れることができる卓越した記憶力のせいもあると思うけれど。

今日の東京は春らしいのどやかな空。週末は京都に参ります。

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2007年3月10日 (土)

「手紙上手になりたい。」字も上手になりたい。

Croissant3月10日発売の マガジンハウス【クロワッサン】「忘れていた、この愉しみ 手紙上手になりたい。」特集で、保存版「美しい文字で書く、手紙とはがき練習帳。」を担当させていただきました。

あな恥かし。

お願い、雑誌は買っていただきたいけれど、ついでに練習もしていただきたいけれど、保存版だからと保存など、どうかなさらないでくださいまし。

弁解がましきことなれど、楷書ってどうにも苦手でございまして。こんなに大きな字になると、いやが上にも下手が目立って、ただ恥かしい限り。

以後、心して精進いたしますので、何とぞお目こぼしのほど。

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2007年3月 7日 (水)

お知らせ

世界文化社より本日創刊された雑誌GRACE (グレース) 2007年 4月号巻頭ページの「今、グレースな手紙が書きたい」を監修させていただいております。

「優雅な美しさ」を目指すグレース世代にふさわしい、洗練された大人の手紙文を、一年間、季節の言葉と共にご紹介してまいります。

「こんな言葉、こんな表現で、いきいきと心を伝えたい」。読者の方々にそう思っていただければ、と愉しみながら書いております。

知性、感性を磨き、頭の中、心の中から、優雅で美しい女性を、ご一緒に目指しましょう。

Grace_

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2007年1月19日 (金)

お披露目

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お披露目と同時に、本文中一箇所訂正いたしたく、お詫びを申し上げます。「塩野七生」さんのお名前が、なんと「七海」さんになっておりました。ひたすら恐縮。小さくなっております。

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2006年12月12日 (火)

紫式部の蛇足

昨宵は大地真央主演『紫式部ものがたり』を観んとて、夕刻より日比谷は日生劇場へ。

『紫式部ものがたり』は、かなりはちゃめちゃなる物語設定並びに展開なれど、なかなかどうして、愉しめる娯楽作品でした。衣装には、もとより軽めに期待しておりましたが、こちらもまずまず満足と言うべきか。主題曲が流れた時は、一瞬ディズニーアニメ『アラディン』が始まるのかと耳を疑いましたが、ま、これもさておいて。

齋藤雅文脚本と言えば、海老蔵主演『信長』も観たけれど。

『信長』は、海老蔵丈ひとりがねっとりと色濃き熱演、その他については気合の入らないことったら、学芸会を彷彿とさせられた記憶がかすかにあります。甚だ無礼なる物言いなれど、もののわからん丹生谷の、いと個人的見解ゆえ、お見逃しを。

大地真央演ずるところの紫式部は、おきゃんで可愛らしく、コミカル。「いやはや、そう来ますか」と苦笑い、が段々大笑いになっていたりして。師走ゆえ、万が一にもお暇があれば、と限定つきですが、王朝文学好きには、あくまでも娯楽として、愉しんでいただける舞台かと存じました。

紫式部について書かれた本で、丹生谷が傑作と推奨するのは、萩谷朴著『紫式部の蛇足 紀貫之の勇み足』(新潮選書)。紫式部の息遣いまで聞こえてくる心地こそすれ。かように面白い書物が既に絶版とは口惜しき限りなれど、アマゾンマーケットプレイスには何冊か出品されておりますので、人間としての紫式部や紀貫之にご興味をお持ちの向きは、ぜひぜひ読まれたし。

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2006年12月 1日 (金)

きちんときれいな暮らしかた

来年一月、主婦と生活社から『母から学んだ、きちんときれいな暮らしかた』を上梓いたします。

丹生谷にとって四冊目の本になりますが、いやはや、かなりてこずりました。

ちなみに「てこずる」は安永年間(1772-1781)の流行語であったそうな。

書きたい思いがすんなり言葉になってくれず、授業の合間を縫っての途切れ途切れの作業は、母、もとい、遅々として進まず。自らの立てた脳天気なる予定よりひと月遅れで、ようやくすべての作業を終え、後は表紙のデザインを残すのみとなりました。

人は父と母から遺伝子を受け継ぎ、かけがえのない命を授かっています。若き日には青臭さゆえに親に逆らっていた時期もありましたが、歳を重ねてみれば、親から受け継いだことが今の自分を作っているのだと気づきます。

親殺し、子殺しの報道を目にせぬ日とてなし、「給食費を払っているのに『ごちそうさま』と言わせるな」などと学校に要求する愚かしい親がはびこっている時代。生活は贅沢になったけれど、ブランド品を身につけ、グルメ三昧に耽っても、所詮は表面だけの豊かさで、心はすさんでいるのが今の日本。

ちなみに「三昧」も「所詮」も、元を正せば仏教用語であったようで。

見かけだけの華やかさではなく、まずは「きちんときれいな暮らし」という視点から、生活を見つめなおしてみませんか。と、書き出したのですが。

母に学んだこと、としての語り口ですから、当然、母のいいところばかりを書き連ねることになります。何分我が母ゆえ、世間並みに、尊敬できるところもあるにはあるが、おやおや、あらあら、まあまあ、というところも、多々あります。

本の趣旨からも、反面教師的な面にわざわざ触れる由もなく、さればとて母自慢と響いては甚だ不本意、と工夫して書いておりますと、なかなか思うように筆が進みません。ごく当たり前のことを書くのに、四苦八苦してしまいました。

ちなみに「四苦八苦」も、これまた仏教用語。「生老病死」の四苦に、「愛別離苦(愛するものと別れる苦しみ)」「怨憎会苦(怨み憎む人に会う苦しみ)」「求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)」「五陰盛苦(五蘊に執着することから生ずる苦しみ)」の四苦を合わせたあらゆる苦しみ、が語源だそうな。

「五蘊」即ち「色・受・想・行・識」の領域に突入すると、戻ってこれなくなりそうな雲行きゆえ、閑話休題、と。

ようやく書き終えたと思ったら、すでに次の伝えたい想いが待ち構えていたりもして。五十路も半ばを過ぎますと、果たすべき使命も、先を急ぐのか、前倒し気味でございます。

ともあれ、『母に学んだ、きちんときれいな暮らしかた』、一月の発売を、どうぞご期待くださいませ。

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2006年10月10日 (火)

美しい手紙

今宵は居待ち月。秋の夜長を月を愛でつつ、あるいは『美しい人の美しい手紙』でもお読みになるなどして、雅びやかにお過ごしくださいませ。

美しい人の美しい手紙』は、当然、全国の全書店で、もれなく平積みにされているはずですが、万が一お近くの書店に見当たらずば、今後の指導のためにも、店主らしき方に向かい、ヴィヴィアン・リーのように片眉をつ、と上げて、「まぁ、こちらでは置いていらっしゃいませんの」と非難がましくおっしゃってくださいますように。

Vivienleigh

ヴィヴィアン・リーをご存じでない方は、こちらの美しい画像を、片眉をつり上げる際のご参考になさってくださいませ。



なんとしても今すぐ手配して確実に入手したいあなたには、片眉をつり上げずとも、こちらからもご購入いただけます。

明夜は臥待ち月、臥してなどいらっしゃるには惜しいほどの秋の夜、『美しい人の美しい手紙』をお読みになりつつ、しっとりと月の出をお待ちくださいませ。

以上、もっぱら広報活動にて。あなかしこ。

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2006年10月 4日 (水)

べっぴんさん

淡交社刊 『京都で、きもの』10月号に、小さなコラム「べっぴんさんの歳時記」を書かせていただきました。

幼い頃、今は亡き父がよく「真美ちゃんはぺっぴんさんだね」と頭を撫でてくれたものでした。親馬鹿ちゃんりん、蕎麦屋の風鈴、とお笑い召されますな。

「べっぴんさん」、優しかった父の笑顔と声がよみがえってくるような、懐かしい響きです。

ご笑覧のほど。

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2006年9月18日 (月)

♡お知らせ♡

Photo_1美しい人の美しい手紙』は9月22日発売予定です。

こちら(amazon)か こちら(セブンアンドワイ)か こちら(楽天ブックス) か こちら (ビーケーワン)からもご予約いただけます。

どうぞよろしくお願いいたします。

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2006年8月16日 (水)

伝えたい思い

9月22日、主婦と生活社から、新たな手紙の本、

美しい人の美しい手紙

が出版されます。

手紙についての思いは『たて書きの手紙』で余すところなく書き尽くしたつもりでおりました。が、どうしてどうして。 心を伝えるおたより」講座でお教えしております内に、あれも伝えたい、これも記しておきたい、と新たな思いが募り、結局一冊の本になりました。

愉しく、美しく、遊び心があって、しかも奇をてらわない。温かい心が伝わる、正統派の大人の手紙。そんな手紙が書けるように、わかりやすく丁寧な手ほどきを試みました。

色のこと。着物のこと。書き残しておきたい思いはまだまだあります。美しい生き方。いきいきと豊かな歳の重ね方。教養とは何か、どう磨いていくか。伝統や歴史を日々の暮らしに生かすこと。こうして書き並べてみると、とりとめのないことのようですが。

おいしいものをいただき、美しいものに囲まれて過ごすことは人生をより豊かにしてくれるスパイス。でもスパイスだけで、人の心は満たされるものではありません。

自分が生まれ、生きていることを価値あるものとすることは、自分にとって何が大切か、何をもって価値とするか、目指すものをきちんと見据えることから始まります。

迷いのない、しっかりと揺るがない軸を持った生き方のために。伝えることが使命であるのならば、全うせねば。

美しい人の美しい手紙

ご期待くださいませ。

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2006年3月28日 (火)

春宵一刻値千金

Tanakahidemichi 一刻値千金の春の宵、読書なんぞに耽っていてはいられません。

ところが読み出したら面白くて止まらない。なんとか夕刻までに読み終えようと、朝から一気に読み通した一冊。大いに共感いたしました。

田中英道著『日本美術 傑作の見方・感じ方』(PHP新書)。お奨めいたします。

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2006年3月 9日 (木)

言の葉、言の花

mybook2 4579209036                                              

                                     

                            

                              

                       

春ですもの。あなたも言の花を美しく咲かせてくださいませ。

たて書きの手紙』と『あなたが花になる美しい日本語。読む内にあなたの心にある小さなつぼみが次々に花開いてくれるはず。

自画自賛はいと恥ずかしきことなれば、我が担当編集者によるお奨めの言葉などご覧くださいますよう。

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2006年2月23日 (木)

菜の花色の着物

昨夜は東銀座でお食事会。マニグリエ真矢さんとおっしゃる生きのいいフランス人女性と、その方をご紹介くださった十数年来の知己、下総の菜の花の君と。滋養豊富なる台湾薬膳鍋を囲んで、文字通りの姦(かしま)し状態。

真矢さんは『パリジェンヌの着物はじめ』というご本の著者。閃きにあふれた方でした。同じく丹生谷の十数年来の知己、なか志まや店主中島寛治氏との出会いをきっかけに着物というファッションの面白さにのめりこんだご様子。詳しくはご本をご購読あられたし。

春の陽気の一日も暮れ、丹生谷は菜の花の君とのお目もじとあって、菜の花色の紅花紬に萌葱色の紬八寸帯、春の空の色の帯締めで。コートも紅花紬の春色ミックスツイード調。春のおでかけ着物は愉しさもひとしおです。

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2006年1月23日 (月)

天の啓示

張り詰めた空気が冷たい朝。肩の辺りがひんやり寒いのは「風邪のひき始めかしら」と都合よく解釈したりして。風邪っぽくはないけれど、ひょうたんから駒が出ては一大事と葛根湯を飲んで、と。今日は授業もないことで、怠惰な一日を過ごし、英気を養うことに決定。

実は存外の怠け者なのに、怠惰は罪悪と教わって育ったせいか、大義名分がない無為な時間は、どうにも心が休まりませぬ。「風邪かも」という大義名分のあらば、堂々と背すじを伸ばしてぐうたらできるというもの。あなうれしや。

「さぁゆっくりのんびりぐうたらしましょう」と、まずはぬくぬくと温かいお布団に包まれて、『楷行草 筆順・字体字典』を眺めておりました。と、ぴかっとひらめいたのです。

この字典、四一三頁から五九九頁まで、合計一八六頁が、代表的漢字の三体一覧表です。一頁毎に上下二段各七字の偕行草三体が表されています。

これを、一日に一段、二日で一頁、精進し、稽古に励めば、三七二日、一年余りでこの字典に載っている漢字を全部会得できることになるではありませんか。

かなで書かれたものは変体仮名を学べば読めますが、(こちらでもお教えしております)、漢字はそうはいきません。かねてより草書で書かれた古書も読めるようでありたいと願ってはおりましたが、学ぶには余りに果てしない道と半ば諦めておりました。

千里の道も一歩からとはまさにこのこと、ローマは一日にして成らず、為せば成る、為さねば成らぬ何事も。読めなかった佐理の書状、小堀遠州の書状、千利休の書状、あれもこれも一年後には読めるようになるんだわ。能力の限界なんぞは試算に入れません。浅はかなる人智にて、神の思し召しを疑うことなかれ。

これぞまことの天の啓示、とむむっと起き出して、半紙など広げ、おもむろに最初の頁から書写を始めました。

拙著『たて書きの手紙』でもご紹介した愛用の筆ペンで書き始めたのですが、「どうせ書くならやはり毛筆で」と墨を磨り、「どうせ筆で書くならついでにかな文字の稽古も」とかな文字の稽古を始め。

としている内に何のことはない、怠惰な一日となるはずが、研鑽の一日、稽古に励んで過ごしました。

宮本武蔵は、『五輪書』に「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」と書き残しています。三六五日の稽古など甘い、甘い。ましてや三日で終わっては、師に合わせる顔もございません。ますます精進せねばなりますまい。

風邪なんてどこへ行ったのやら。天の啓示により、精気煥発し大気に満ち満ちる中、またひとつ新たなる目標を得、今日は豊かな未来への第一日となりました。天に感謝。

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2006年1月19日 (木)

4579209036mybook2                                                

                                     

                            

                              

                       

                         

                                                                                                                      
こちらの2冊をお読みいただきますと、あなたの心にひと足先に春が訪れるかも。

左は
たて書きの手紙』、

右は
あなたが花になる美しい日本語

どちらもあなたの座右の書としていただけますように。

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宮本武蔵 『五輪書』

人生には辛いこと、哀しいこともままあります。心の琴線が緩み、奏でる音が沈みそうな時、丹生谷は心から敬愛し、師と仰ぐ諸先輩の言葉で自分を励まします。

ささくれ立った心を優しく包んでくれる柔らかな言葉がほしい時は美智子様の『橋をかける―子供時代の読書の思い出』を。

幸せなこと、美しいこと、愉しいこと、人生の「いとをかし」を見つめ、心を花でいっぱいにしたい時は『枕草子』を。

まっすぐ潔くありたいのに迷いが生じ、愚に惑わされない勇気がほしい時は『五輪書を。

美しい言葉は繰り返し、繰り返し読むことで、自分の心の一部になります。

元気をいただいた昨日、さらなる勇気を燃やす火を求めて、『五輪書』を手に取り、無造作に開くと、観世音菩薩のお導きか、「空之巻」の頁。心の一部になっている一節が目の前にありました。

「武士は兵法の道をたしかに覚え、其の外武芸をよくつとめ、武士のおこなふ道、少しもくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空と知るべき也」

読みながら自ずと「武士」は「丹生谷」、「兵法」は「教え」 「武芸」は「諸芸」に置き換えられ、ありがたき師のお言葉に、「ははっ。師の仰せの通りにございます」と伏して額づかんばかりの心持ちこそすれ。

丹生谷は講談社学術文庫版、鎌田茂雄訳注『五輪書』を座右の書としております。

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2006年1月17日 (火)

美と品格

4106101416ライブドア捜索。何をか言はんや。

政治も経済も科学も宗教も、根底に美学がなくてはならない。森羅万象が自ずから美しき均衡を持つように、人の営みもまた、美しくあるべき。

美と醜を見定める眼を持つこと。真なるもの、善なるもの、美なるものをこそ求めること。

と、あれこれ思い巡らす中で。藤原正彦著『国家の品格』。お薦めいたします。

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2005年11月30日 (水)

玉石混淆

数年前、齋藤孝著『声に出して読みたい日本語 が話題になって以来でしょうか、巷では「日本語」熱が続いているようです。内容はともあれ(失礼)かなり売れているらしい『問題な日本語―どこがおかしい?何がおかしい?』『美人の日本語』『達人の日本語を始め、地味ながら充実した本まで、書店には「日本語」本がずらり並び、なにやらテレビでも「日本語」番組が流行りとか。母国語がブームというのも妙な話ではございますが、それはさておき。

厚かましくも申し上げますと、並んだ本の中でも白眉なるは、拙著『あなたが花になる美しい日本語』かと。きれいな言葉を連ねた、ぱっと見だけの流行本とは内より放つ輝きの違う本、と自負しております。

言葉は生き方、感受性、教養に根ざすもの。言葉を磨くことは自分を磨くこと、自分を磨かずして、言葉は磨きようもありません。自分磨きは、まずはは日々の暮らしから。「教養」などという口幅ったいご大層なことについても、明るくまっすぐに、かつさらりと軽やかに書き綴っております。

いやはや、こう書きながらも、手前味噌は恥ずかしゅうございます。

軽やかタイプの日本語本の中では、ひと際輝いていると思っていたけれど。うーん。遥かに重い、深いことが、いともさらりとわかりやすく書かれた大野晋著『日本語の教室』―大先生の著なるものだけにさすが、と感服いたしました。

知性と感性は両の足、右と左と交互に出さねば前には進めない、これは丹生谷の持論ですが、日本語も同じこと。やまと言葉は感性の言葉。漢文調は理性、知性の言葉。日本語教育を軽んじてきた結果、考え、感じる力を持たない人ばかり増えてきました。

例えば耐震データ偽造。目前の利益だけを追えば、どういう事態に陥るか、さしたる想像力を持ち合わせずともわかるはずのことが、数字に「円」という単位がつくと、めっきのようなぴかぴかした光に惑わされ、見えなくなる。大野晋は戦後の日本語教育が軽んじてきたことを問いただし、何をすべきかを提言しています。

野口恵子著『かなり気がかりな日本語』―こちらも真面目に書かれた、秀逸な一冊でした。日本語の乱れを丁寧に分析し、その根底となる時代の変化を見つめ、日本の未来のために、今、私たちがなすべきことを提言しています。わかりやすく明解な展開です。

脳の劣化を促す(と丹生谷は考える、そして石川九楊もどうやら同意見―『縦に書け!―横書きが日本人を壊している』をご参照あれ)横書きの本や、見出しを少しばかり薄めた文章を頁ごとに数行ずつ連ねたような本、一度読んだら二度は読む必要がない本ばかりが書店の店先に平積みされている現状には辟易。良書は手元に置き、折あるごとに繰り返し読みたくなるものです。

一度しかない人生の限られた時間とあらば、心して大切に使わねば。まずはおすすめの二冊(拙著を加えれば三冊)をぜひお読みくださいませ。

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2005年10月31日 (月)

げに懐かしき

昨夜はこのブログにて、「手紙」の話題から『長い長いお医者さんの話』に触れたことがきっかけとなり、晩秋の長き一夜、大好きだった懐かしい童話の数々に思いを巡らせながら眠りに就きました。

幼き日、むさぼるように繰り返し読んだあの本やこの本。16歳から2年間の米国留学中、実家の新築に伴って、書庫の児童文学は成長した4人姉妹にはもはや不要なものとされ、すべて処分されておりました。帰国後、そのことをいともさらりと知らされ、かけがえのないものを失った思い、行き場のない悲しさに言葉もありませんでした。大切なものは失ってから気づくのですね。

20代も半ばになって、もう一度読みたいとあれこれ調べ始めたのは、郷愁の思いと、いずれ娘に同じものを読ませたい母心もあったのでしょう。

出版社はおろか、題名すら定かではなく、調べる手立てとてなかったものもあり、インターネットなるものが登場してようやく再会が叶った作品もあります。

何十回となく繰り返し読んだ傑作中の傑作、美しい、あるいはどきどきわくわく面白い丹生谷好みの作品を、思いつくままにランダムに挙げてみます。あなたのお好きだった童話がありますか。

ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』そして『鏡の国のアリス』は5年生の夏休みにその魅力に惹きこまれ、あまりの面白さに「英語で読めばもっと面白いはず」と原文に挑戦したのが中学1年生の時。海の底の学校で学ぶ古典は「笑いと悲しみ」’Laughing and Grief’(’Latin and Greek’のもじり)、最初に教わるのは「ふらふらとくねくね(正確な訳は失念)」’Reeling and Writhing’(こちらは’Reading and Writing’のもじり)だなんて、なんとも英国人らしい上質の諧謔、言葉遊びではありませんか。訳文も優れもので、原文のおかしさや言葉の面白さが充分に伝わり、子供なりに言葉遊びの面白さにうち興じ、夢中になっておりました。

雪の女王』は大好きだったアンデルセン童話の中でも一番美しいお話。北欧版『井筒』、読み返す度に目が潤みます。

マクドナルド『お姫さまとゴブリンの物語』、かつては『王女と小鬼』と訳されておりました。二十代で『王女とゴブリン』として再会。塔の上の屋根裏部屋で糸をつむいでいる銀色の髪の老貴婦人「おばあさま」の姿が、母方の祖母の大理石像のような白く整った横顔と重なって、子供心に「おばあさま」が見守ってくれている自分を想像したことを懐かしく思い出しました。祖母は私の留学中に天に召されましたが、今でも私が迷った時、透き通った糸を垂らして、たどっておいでと導いてくれるのは天国の祖母なのかもしれません。

『雨姫様』はシュトルム『たるの中から生まれた話』に収録されています。きれいなきれいな物語です。小学生の頃、しとしと雨の降る日は、雨姫様が長い眠りからゆっくりお目覚めになるお姿を想い、想像の世界にうっとりと浸ったものでした。

『安寿と厨子王』、森鴎外の『山椒大夫・高瀬舟 他四編 岩波文庫 緑 5-7』、悲しいお話ではありますが、これも想像の世界のお気に入りでした。懸け守りというものでしょうか、錦の小袋に大切に包んだ観音像を胸に下げている安寿に憧れ、慣れぬ汐汲みなどさせられる自分を夢見ておりました。

「安寿恋しやほうやれほ、厨子王恋しやほうやれほ、鳥も生あるものなれば、とうとう逃げよ追わずとも」―お洗濯物をたたむ時、丹生谷は盲いた老女となってこうつぶやいてみたりします。かつては受領階級とはいえ貴族の奥方であったこの年老いた盲目の母は、今こうして雀を追いながら、いったいどんな思いでどんな声でどんな節でこの歌を歌ったものでしょう。すべてを諦めつつも、なお諦めきれぬ老女の心の内、想像し得るものではないのでしょうけれど。人の痛みや苦しみがわかる自分になりたいと思います。

サンテグジュペリ『星の王子さま』は新訳が次々と登場しているようすです。『クマのプーさん』、これは定番中の定番ですね。

ファージョンの『ムギと王さま―本の小べや〈1〉』。ファージョンの作品とは大学生になってから出会いました。どれもほのかな切なさが心に響く短編です。

あなたも好きだった童話を、時には読み返してみませんか。みずみずしい感動がよみがえり、子供の頃の純粋で素直な自分に帰るようです。

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2005年10月23日 (日)

皇后陛下美智子様のお言葉集 『歩み』

悟りの智慧を得るために悪を破る五つの力とは、
  信力(心を清らかにする力)
  念力(記憶する力)
  精進力(善に励む力)
  定力(禅定する力)
  慧力(真理を理解する力)
の五力だそうですが、それらを妨げるのが、
  欺・怠・瞋・恨・怨
の五障だそうな。愚身が突然の説法にておそれいります。

人を欺き、自分を欺く。なすべきことを怠け、怠る。瞋とは怒り、憎しむこと。人に不満を持ち、恨む。そしてさらに憎み、怨む。そんな心は持ちたくない!と思ってはいても、人は誰しも共通して、かような愚かさの芽を心の内に持っているのです。

愚かさが心の中でちょっと芽を出しそうになった時、丹生谷は皇后陛下・美智子様のことを想います。美智子様ならこんな時、どんなお言葉を口にされるかしら、と。

理想ばかりは高々と掲げておりますが、その実は怠惰な自分を反省する日々。自分がぐうたらゆえにしていないことを、お気軽に実現している人を見ると、あれこれ難癖をつけて批判めいたことを口にしたくなることもあります。そんな時、美智子様のおやさしい微笑みを想像し、思いとどまって自分を振り返ると、批判したい思いの奥には浅ましき「嫉妬心」があることに気づかされます。そんなことに気づきたくはないけれど、気づかずに自分を欺いているのは、さらに愚かなこと。

ああそうだわ、自分には目指すものがある。燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。「嫉妬」などという愚かしい感情は自分の生き方にふさわしくないわ!そう思って五障と訣別し、心を清らかに保つべく、自分を励ましております。

歩み 皇后陛下お言葉集』-素晴らしいご本です。手元に置き、悲しい時、辛い時こそ頁を繰って、ひと言ひと言を味わってください。心に覆いかぶさっていた雲が晴れ、光にあふれた爽やかな心になることでしょう。

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2005年10月18日 (火)

『フローラン・ダバディーの絶対おいしいTOKYO』

photo_marie_4  フローラン・ダバディー氏とは彼のお母上が私の妹、タジャン博美の25年来の親友であるご縁で彼がまだ留学生でいらした頃からのお知り合い。妹の自宅でのディナーパーティで、グラスを手にした金髪の美しい方が母君。美しいばかりではなく、才知にあふれた方です。左は妹の博美です。

丹生谷の著書『たて書きの手紙』にフローラン氏の留学生時代のことを書かせていただき、今回新しく上梓した『あなたが花になる美しい日本語』では彼にすてきな推薦文をいただきました。 mybook2下の画像の帯部分、目を凝らしてご覧ください。

だからご紹介するということではもちろんありません。一読の価値ありなのでおすすめしたい、彼の新刊です。『フローラン・ダバディーの絶対おいしいTOKYO』は、東京はもちろん、世界中のおいしいものを集めた本。小学館発行。

フローラン氏のお父上はフランスでは知らない人はいない著名な脚本家でいらっしゃいます。

レマルクの『凱旋門』にも登場するシャンゼリゼ大通りのカフェ&レストラン「フーケ」は表向きは一般観光客用の、価格だけはかなりの高級カフェ。ご承知のように、アメリカ人や日本人でいつも満席ですが、一歩奥に入ると、そこは常連のみが通される落ち着いた室内で、いかにもフランス的、いやパリ的と言うべきか、スノッブな構成になっています。そのレストランのメニューに「ウッフ・ア・ラ・ネージュ・ダバディー風」という卵料理があり、パパ・ダバディー氏のお気に入りメニューであることから彼の名がついているそうな。というくらい有名な方なのです。

BOOK_florent フローラン氏は自分の言葉、自分の哲学を持った人。きちんとした日本語を話す、魅力的な男性です。小学生でもあるまいし、ご自分のご両親のことを「お父さん」「お母さん」などとおっしゃっている国会議員に、大人の日本語を一からご指導いただきたいところですが。

こちらはフローラン・ダバディー氏のブログです。http://dabadie.cocolog-nifty.com/blog/main.html  

彼の感覚が面白くて、丹生谷も時折覗いております。

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2005年10月 9日 (日)

10月9日 東京新聞・中日新聞朝刊 読書欄

本日10月9日の東京新聞と中日新聞朝刊の読書欄「この人この本」で、丹生谷の『あなたが花になる美しい日本語』への書評をいただきました。

新聞でご紹介いただいたことはもちろん嬉しいことなれど、あの本を通して伝えたかった思いが、小さな欄の短い文章からさらりと軽やかに伝わってきて、そのことが丹生谷の心にじーんと響いております。

中日新聞の野村由美子記者が名古屋から上京され、初めてお目にかかった過日の1時間余りほどの短い会話を思い返しました。

丹生谷が本に託した思いを丁寧に読み解いて、短い会話から丹生谷の心をきちんと受け止めて書いてくださった、小さいながら磨かれた宝石のような文章。言葉を通して伝えたいことが伝わることの喜びを改めて思いました。野村由美子様、ありがとうございます。

ひとつだけ事実関係の訂正、「自ら主宰した教室で6年間教えている」とありますが、実際は「13年間」です。その前の某フィニッシングスクール初代校長時代から通算いたしますと、この仕事に携わり19年、来年はなんと早20周年ということになります。光陰如矢。

肌寒い雨の空ですが、心は清々しく澄みきっている朝でございます。

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